空知鉃道の沿革
History of Sorachi Railway
空知鉃道の歴史と鉄道を作ったオーナーの物語
2012 ▶ 2013
空知鉃道の始まり
手探りの鉄道作りだった
北海道で最初に走った鉄道、幌内鉄道は1880年11月に手宮(小樽市)から札幌まで開通し、2年後には幌内(三笠市)まで全線開通し本来の目的である石炭輸送が始まった。幌内鉄道は岩見沢市にも路線があったため昭和にかけて岩見沢は鉄道のマチとして大いに賑わった。
岩見沢駅から車で10分、距離で約8Km離れた北村にある民家。主要道々沿いにあるが観光客が訪れるのも希な地域で、のどかな風景が広がる田舎で一人の男が構想を練っていた。後に空知鉃道のオーナーとなる人物である。
2012年12月8日。札幌の歓楽街でオーナーは居酒屋で忘年会を楽しんでいた。その場で「敷地内にミニ鉄道を作ろうと思う」と発言をした。当然、バカにされたり無理だと言われるかと思いきや「おもしろい」と肯定的で、実現するにはどうするかが話し合われた。後にこの日を「空知鉃道設立記念日」とした。
年は変わり2013年春。雪融けを待ち実際の線路敷設をする区間の選定を始めた。コンベックスで距離を計測しおおよその路線が決定したのが4月。しかし、駅を設置する場所が窪地で、どうやってかさ上げするかが難点だった。後に敷地内にあったU字トラフを使うことで一応の解決となる。
スコップで土木作業を行い、インターネットを駆使して部材の取り寄せを行った。軌道の道床作りのためダンプカー1台(約3トン)で砂利を搬入した。8月に道床が完成しあとはレールを設置するのみ。しかし、レールはどこで売っているのか?レールとまくら木をどうやって設置するのか?など難題が待ち受けていた。仲間で技術に長けている者がいたためレール敷設については解決し、レール本体は親戚の鉄工所から鋼材会社に話をしてもらい無事に現場へ搬入された。初めてレールが敷設されたのは、初雪が降った11月のことだった。
2014 ▶ 2015
赤川駅舎完成、動力車製造
いよいよ開業へ
順調に軌道工事が進められ2014年度には北村駅起点から約19m地点まで敷設完了した。北村駅前通り踏切も5月に完成し線路らしい姿になった。軌道工事と平行して赤川駅兼車両基地の建設も始まった。建設に関しては外注し6月に完成。その後、係員に電気工事士の資格保有者がいるため電気設備の工事を空鉄で実施した。7月には車両基地内の軌道敷設を行い、秋に完成する試作車両の留置線も完成した。
作業の合間に鉄道施設の見学も行っていた。2014年と言えばJR江差線の廃止があり、江差駅と木古内駅間を一往復乗車した。維持できない線路の廃止はやむを得ない、とはいえもの悲しさがある。空鉄運営の根本にある「走ってナンボ」という考えは、道内各地から姿を消した鉄路に対するやりきれない思いなのかもしれない。
北海道の短い夏が終わり冬の気配が近づいた頃、初の車両台車が完成した。オーナーの親戚の鉄工所がある北海道富良野市。ここで製作を外注していた。旋盤加工と溶接は専門外のためプロにおまかせして車両基地で組立を行う工程で話を進めていた。車両基地内で組立を行い簡易な車体を取り付け、試験車「すずかけ」と名付けた。手押しで全長19mの軌道上を何往復も転がした。試験は問題なくクリアし、翌年春にモーターを取り付け動力車化した。これが現在の1910形車両となる。
2015年5月に計画上の45m区間全線の軌道工事が完了。レール締結式が行われ電車が全線を走り抜けた。その後、曲線部での脱線事故の発生・対策に難儀したり、車体の改造、運転士教習などを経て9月25日、北村~赤川駅間が無事に開業した。
2016 ▶ 2018
既存の設備をより
鉄道らしく
鉄道建設当初の目標である「開業」を無事に迎え、以後は設備の改良に力を入れることになる。全線単線の線路であったが北村駅に側線を設ける工事に着手(2016-2017年)し、空鉄初の分岐器(ポイント)を製作・設置をした。また、赤川駅兼北車両基地の改良工事と鉄道信号機設置(2016年)や駅間の有線式鉄道電話の敷設と電力線敷設と照明設置(2017年)、北村駅ホーム舗装(2018年)を行い、より鉄道施設らしさを追求した。
ハード面を充実させると共にソフト面、鉄道係員の育成を毎年行った。定期教育訓練を列車運行時期に合わせて行い、異常時対応訓練や運転技術向上のために普段ではあり得ないような状況下での運転訓練(急制動など)を行う。
本州の鉄道博物館や列車乗車も積極的に行った時期でもあり、様々なものを空鉄にフィードバックさせている。
様々な鉄道施設を見て回り改良工事を進めて行くなかで、体力的にキツかったのが「軌道改良」である。空鉄線当初のバラスト材が角が丸い石を使用していたが、現在の主流は角が尖っている「砕石」であり、そのほうが軌道を支える上で有効であるとのこと。それならば全線バラストの入れ替えだ!となり、数年かけて45m全区間を実施した。工事に従事した作業員はあまりの苦痛に皆黙々と砕石と向き合っていた。喜びと苦痛が同居した鉄道建設であった。
駅と車両基地が同居しているのは使い勝手が悪く、なんとかならないものか?そう思うようになるが、これ以上の土地がない。そんな中、北村駅から分岐して小さな小屋を建設して車両基地にしようではないか、という構想が浮かび上がった。
2019 ▶ 2020
メディアに出る「空鉄」
土地の購入、軌道延伸へ
空鉄運輸係員の新制服がお披露目された。いつ新聞テレビの取材があっても大丈夫!とオーナーは意気込んでいた。その後、結構早い段階で取材依頼が舞い込むとはこの時は思ってもいなかった。
北村駅の脇に小屋を建てて車両基地にする構想は本格化し、業者に見積をお願いする段階まで進んだ。しかし、話は少々違う方向へ転がり始め隣接地の購入へと進んでいく。無理矢理狭い土地に小屋を建設するより、土地を広げた方が線路も延ばせて広めの車両基地を建設できる。それなら土地を買うしかないという話でまとまった。
2019年6月、購入した隣接地の測量を開始する。前々から「すごい雑草だな」と眺めていた土地に立ち入り、あまりの歩きにくさに転びそうになる。「ここを整地してレールを敷設するなんて...」
2020年春。以前見積をお願いした業者へ新車両基地建設と整地や軌道道床資材の搬入等をお願いする。土地購入から1年の間、車両基
地と軌道延伸区間建設については練りに練った。悲願の建設着工である。
それと同時期に本州から鉄道関係者ご一行様の見学対応中に、たまたま通りかかった地元新聞記者に声をかけられた。その後、新聞の空知版に空鉄初の記事が掲載され、その後道内テレビ局の夕方ニュースで映像デビューを果たした。SNSを積極的に運用していたので、何かイベントがある度にフォロワーが増えていった。
また、空鉄と言えば「猫」である。飼い猫ではなくたまにふらっとやって来る野良猫である。近所から可愛がられて、またネズミを狩ってくれるため重宝される存在でもある。SNSでも頻繁にこの野良猫を取り上げたが、これが騒動の発端となり頭を悩ます時もあった。SNS運用の難しさを実感した。
2020年9月で開業5年を迎え、初めて一般公開を行った。SNSでの告知だけで数人のお客様がご来場した。それから毎年、事前予約なしの見学対応を始めていった。
2023
再生する細胞
ただ光を探し、生まれ変わる
SNS運用をやめ、環境に配慮して5月31日で軌道の一部区間を廃止した。車両の改良工事を行いツーマン運転対応車両となった。
オーナーの体調は芳しくなく生活に支障が出るほどになった。そのため鉄道運営も計画通りに出来ない状態となる。体調はすこぶる悪いが病気とは思わず放置しついに発作となって襲いかかった。救急車を呼ぶ寸前まで考えたがなんとか乗り切り翌日病院へ駆け込んだ。内科で病状を説明するも「脚がムズムズして寝られない」という所だけピックアップされ、脳神経内科受診を促される。予約を取り脳神経内科へ行き「検査上、身体に問題は無い」と言われ絶望する。いよいよこのままではまずいと思い、スマートフォンの病気診断アプリを使用する。症状等を入力し出た診断が「早急に精神科へ受診」であった。近所の大きめの病院へ連絡し、翌日診てもらえることになった。問診で生活状況を詳しく聞かれ、問題点や病状の説明を受けた。
病状は自律神経の乱れで不眠・不安・倦怠感などとなり現れ、原因は空鉄運営上で関わるアンチからの攻撃であると主治医より告げられた。そして「ストレス源の人と接しないように」と言われ、鉄道運営を一時中止する(北村へ行かない・滞在時間を減らす)しかなかった。本業の仕事量を減らすと共に投薬治療に専念し鉄道運営から離れる日々を送るが病状はすぐには良くならなかった。記録的猛暑で夏バテをし、その後初めてコロナに罹患しコロナ後遺症がひどく長引いた。体力が低下し作業ができなくなった。主治医からは「うつ病ではない」と言われたが病状はうつ状態とさほど変わらないと感じていた。全てのことに対してやる気が全くなく、人と話すのが億劫であった。
このような状態を経験しワンオペ運営に限界を感じ、組織としてミニ鉄道を運営していく方向に舵を切る。そして「空知鉄道協会」を本格的に始動させることとなった。
2024年以降になれば病状も良くなり、今より心も身体も動けるようになるだろう、そう考えながら新年を迎えた。